LOGINマールトン・ヘーデルヴァーリは、愚かな男だった。
宝の持ち腐れとは、ああいうのを言うのだろう。
イロナは輝く魔石のようだ。
ヘーデルヴァーリ家の家宝の「時戻りの魔道具」だって、僕に活用されて嬉しいだろうさ。
……といっても、何回も使えるような代物じゃない。
マールトンから採取した血液も、奴の寿命も有限だ。
魔道具を分解して解析するか。それとも、また使いたくなったときのために温存しておくか。
悩ましいところだ。
そもそも、あの男が息絶えてしまったら、瓶に保管してある血液が残っていても魔道具は使えなくなるのだろうか。
それから、あの魔道具が反応する「血縁」というのは直系だけなのか。
分家でも反応するとしたら、どこまで有効範囲なのか。
そういう疑問を、気軽に実験できないのが悩ましいところだ。
古代の魔道具は、わからない部分が多すぎる。
「寿命を代償にする」というのも古文書に書いてあっただけだ。検証する方法などない。
僕があの魔道具を所有していると知られるのもまずい。
譲渡されたわけじゃない。僕は、歴とした窃盗犯だからな。
実は、爵位を得るための資金作りで、あの魔道具を一度使ってしまった。
子爵家の令嬢に釣り合うためには、揃えなければならないものがたくさんあったんだ。
けれど、もし……もう一度そんな使い方をしたら。
僕は坂を転げ落ちるように、魔道具に依存し、使い続けるようになるだろう。
そうやって、魔道具の誘惑に負け、自滅する人間を何人も見てきた。
これからは、己の自制心との闘いだ。
便利なものほど、使い方を誤れば身を滅ぼす。
それから――前回と同じなら、彼女の家は二年後に銀鉱山を掘り当てるはずだ。
確か、お
試しに領地を調べたら、銀鉱山があったというわけだ。
僕は、その富のおこぼれに預かりたいわけじゃない。
彼女を大切にして、彼女の実家とも良好な関係を築いておきたい。
本当に困ったときに、助けてもらえる程度の関係でいい。
理想は、僕の魔道具の店が順調で、お金に困らず穏やかな家庭を築けることだけどね。
彼女の家族に認められるよう、功績をアピールして貴族の末席に名を連ねることができた。
そして僕はついに、彼女に求愛することを許された。
事前に、爵位をもらえたらチャンスをくれと、彼女の父親には打診しておいた。
だって、その前に他の男と婚約されたら困るだろ。
あとは、全力で口説くのみ。
といっても、情に篤いイロナのことだ。
頻繁に顔を合わせていれば、うなずいてくれるだろうと楽観している。
現に、求婚の返事はもらえていないものの、定期的にお茶をするようになった。
魔道具が壊れたから……なんて理由を作る必要もない。
顔馴染みになったメイドが僕の顔色を観察し、スープを出すか
今日はどうやら合格をもらえたらしい。
ローテーブルに、カーヒーが置かれた。
それに、棒状に巻いたクレープが添えられた。
ジャム入りとカッテージチーズ入りの二種類が用意されている。
魔導爵は一代限りの貴族だから、もう少し功績を挙げて男爵になる。それが次の目標だ――そんな話をした。
頑張るから、期待してほしい。
だから、僕を選んでくれとアピールする。
「爵位に
一度死んで、おまけの人生だと思えば、大抵のことは気にならないものよ」
少し呆れたように、イロナは肩をすくめた。
僕は調子に乗って、語りすぎたかもしれない。
「それより、一緒にいる時間が長い方がいいんですけど」
そう言ったイロナは真っ赤になって、そっぽを向いてしまった。
なにこれ。可愛い。
もう、承諾しているのと同じだよね?
僕はソファから立ち上がると、テーブルを回り込んでイロナに抱きついた。
「ありがとう! 大切にするから!」
「魔道具に夢中になって、子どもを放置するとか駄目なのよ? お父様とお母様みたいになりたくないの。わかってる?」
「うん、努力する」
「約束するとは言わないのね?」
「……」
黙っていたら、ごまかせないかなぁ……。
でも、言ってることは、「好きだから、ずっと一緒にいたい」ってことだよね。
あ~、可愛い。
どんな可憐な女性だって、夫や婚約者が頼りなければ、口うるさくもなるだろう。
可愛いままでなんて、いられないから。
浮気相手だったカタリンとの結婚生活が息苦しくなったから、巻き戻ってイロナとやり直したいなんて。
感情的に
マールトンは、そんな自分の都合だけを考えて、見捨てられた馬鹿野郎だ。
どちらの女性も大切にしなかったお前が悪い。
共に歩もうとしなければ、優しい顔など見せてもらえなくて当然だ。
マールトンは、自分が女性に
ぎゅうっと僕の宝物になった彼女を、抱きしめる。
イロナは僕をベリッと引き剥がし、「侍女が見ています。お座りなさい」と命令した。
「ごめんね」
そう言いながら、緩む口元をどうにもできない。
彼女は耳まで赤くしている。
侍女はぷるぷる震えつつ、生暖かい目で見守ってくれている。
大人しく自分の席に戻りながら、僕は思う。
マールトンが大事にせず、手放した幸せがここにある。
彼が取り戻したかったのは、こんな心安らぐ時間だったのだろう。
けれど、彼がそれを味わえるチャンスは、もう二度と訪れない。
裁判でどんな判決が下されるのかは、わからない。だが、無罪になることはないだろう。
毒薬の元となる草が、自室で発見されてしまったのだから。それについては冤罪だが、カタリンとの浮気と、妊娠させたことは事実だ。
殺人幇助の疑いを覆すのは、厳しいに違いない。
それから、相変わらずイロナへの愛を訴え、禁術で時を戻したと主張しているらしい。
禁術など使っていないと言えば、罪はぐっと軽くなるだろうに。
そうしないのは――それ以外に、イロナの心を動かせる当てがないのだろう。
本音を言えば、あの日、イロナをカタリンのヴァッシュ家まで行かせたくなかった。
無理矢理毒を飲まされたらどうするんだと、イロナを詰問してしまった。
イロナを責めたいわけじゃない。
ただ、怖かったのだ。
僕は、イロナを危険な目に遭わせたくない。
前回殺された日に、殺された場所に行くなんて、危険すぎる。
失いたくない。
そう思ったとき、自分の気持ちに気がついた。
イロナ本人に会った回数は数えるほどでも、巻き戻る前から彼女の情報を集めていた。
だから、僕の中では、ずっと前から知り合いだったような懐かしさがあったんだ。
少なくとも、僕にとっては
一度、自分の気持ちを自覚してしまえば、後は邪魔者を排除するだけだった。
上手く排除できたから、僕は今こうして、セーケイ家でカーヒーを飲んでいる。
僕の予想では、禁術に関わったマールトンと、禁制品を使用したヴァッシュ男爵――この二人は魔術研究所のモルモットにされるだろう。
殺人未遂のカタリンは、終身の労役刑といったところか。あの毒薬の入手ルートが、罪を重くしている。
ヴァッシュ男爵家は、取り潰しになった。新興貴族だから、消えたところで大した影響はない。
これで、イロナを苦しめた者たちは、一掃される。
二度と、彼女に近付けるものか。
もし、刑が軽くて、釈放されるようなら――出てきた瞬間に抹殺してやる。
マールトンのヘーデルヴァーリ家は、家宝の一覧を提出させられ、禁術に関係するものを没収された。
爵位も伯爵から子爵に落とされた。
マールトンが見下していた「子爵」だ。
もう、あいつがイロナを馬鹿にして、自分の方が偉いと主張する根拠はなくなった。
……いや。
僕と結婚したら一代限りの魔術爵だ。またイロナの方が格下になってしまう。
早く爵位をあげないと。
でも、そうしたらイロナとの時間が少なくなる。
さっき、彼女に言われたじゃないか。
爵位より、一緒にいる時間の方が大切だと。
くぅぅ、堪らないな。
はあ、幸せだ。
「気軽にリセットしようとして、手に持っていたものをすべて捨てた愚か者。
価値あるものは、僕が拾ってあげたよ」
僕は巻いたクレープを口に入れる直前に、つぶやいた。
「ん? ガーボル卿、何かおっしゃって?」
イロナがカーヒーカップを置いてこちらを見る。
「いや、この後、お
「そ、そうね。カーヒーをじっくり味わってから……ね」
イロナは、甘いメランジェをたっぷりとカーヒーに加えた。
溶けていく様子に意識を集中しようとしている。
淹れたてではなく、少し時間が経ったカーヒーだから、溶けるのもゆっくりだ。
カタリンに毒入りメランジェを飲まされた心の傷も、癒えてきているのだろう。
冷静に振る舞おうとしている様子が、愛おしいと思う。
これからは遠慮せずに、近づいていい。
それが、僕はとても嬉しい。
「あの、そんなに見つめないで……」
僕を意識して、ドギマギしているのだろうか。
「どうして? 何がだめなのかな?」
イタズラ心が芽生えた。顔を近付け、彼女の目をのぞき込む。
イロナは目を潤ませながら顔を背け、のけぞるようにして距離を取ろうとした。
その腕を取って、口づけしたい。そんな衝動を、どうにか堪えた。
――まだ、少しだけ早いぞ。
学園の卒業が近づいてきた。卒業と同時に結婚する同級生たちもいる。楽しそうに未来を語る様子を見ていると、マールトンとの婚約が続いていたら、自分もあの輪の中にいただろうか――そんなことを考えた。いいえ――と、首を振る。もしそうだったとしても、楽しくはなかったと思い直す。カタリンがそばにいたら、何かと邪魔されて、人の輪に入ることさえできなかったに違いない。結婚する予定がないということに、ほんの少し寂しさを覚えただけだ。だから、彼との婚約がなくなった今の方が、ずっと幸せなのだと再確認する。そんな気持ちは口にせず、事件のあとにできた友達と卒業試験の話をしよう。目の前のことに集中すべきだ。一回目には断ち切られてしまったわたくしの未来は、これからも続いていくのだから。そんなある日のことだった。「明日は来客があるから、イロナは外出しないように」夕食の席で、父がそう言った。「どなたがいらっしゃいますの?」普段なら母が尋ねるところだ。だが、何も言わないので、わたくしから父に質問した。「明日になればわかるよ」思わせぶりな口調だった。父の表情を見る限り、悪い話ではなさそうだけれど。そんなふうに呑気に構えていたわたくしは、翌日、花束を抱えて訪ねてきたガーボルを見て、目を丸くすることになった。「嘘……何、それ」「求婚しに来ました」驚いて何も言えずに立ち尽くすわたくしを見て、父が苦笑いした。「おほん。ガーボル・ヴェレシュ卿。そのような紹介は私の役目ですし、今日はあくまで見合いです。いささか気が早いかと」ガーボルは真っ赤になり、父に謝罪した。「え? 卿って……?」話を聞けば、わたくしとお見合いするため、この半年ほどで魔術爵を得ようと頑張っていたという。だから、連絡をする暇もなかったのね。そう知らされて、嬉しいという気持ちはある。けれど、それ以上に、どう表現していいかわからない感情で、ぐちゃぐちゃになっていく。二回目の人生が始まった一か月間は、起こる出来事がある程度予想できた。けれど、それも事件を乗り越える時点まで。その先は、何が起こるのかわたくしにはわからない。みんなと同じように、「まだ見ぬ日々」を生きていく。ただ、それだけだのことなのに。怖くて堪らなかった。そんな気持ちを、事情を知っているガーボルに聞いてほしかった。一緒に悩ん
わたくし、イロナは二年生まではマールトンの婚約者として、いじけた日々を送っていた。カタリンには、いつから憎まれていたのだろう。彼女がマールトンを好きになる前から?。それとも、好きになったから、わたくしが邪魔になったのか。考えても答えは出ない。婚約者だったマールトンに嫌味を言われたり、無視されたりするのは辛かった。何をしても否定されているような気がして、どんどん自信がなくなっていった。いつの間にか、気が緩むと背中を丸めがちになり、廊下を歩くのも足が重くなっていた。教室でわたくしの名前が出ると、何か失敗したのか、また笑われるのかと身構える。そんな中で、カタリンが笑顔で話しかけてくれるのが救いだった。友達って、ありがたいなと心の底から感謝していた。けれど、それもわたくしを貶める前振りのようなものだった。親切そうな言葉で、わたくしに恥をかかせる。カタリンは心配そうな声を出し、他の人たちがクスクス笑う。わたくしは笑って誤魔化すことしかできなかった。自分でも、笑顔がぎこちなくなっていくのを、心の隅で自覚していた。認めたくなくて、見ない振りをしていた気持ちを……。そして、三年生の始めに毒殺未遂。いいえ。前回は、未遂ではなく、そこで人生が終わってしまった。今回は違う。魔術師ガーボルの手を借りて、わたくしは生き残った。殺されるという恐怖と、未来を覆そうとしている緊張感。手探りの中で、一緒に考えてくれる人がいる頼もしさ。あの一か月は、今までの人生で一番濃い時間だった。あの高揚感は、今後の人生でも二度と味わえないかもしれない。危機が去ってしまえば、あの夜も眠れないほどの不安も、いつかは思い出に変わる。……そう思っていたのに、何か物足りない。達成感のあとの虚脱――それもあるだろう。だが、それ以上に、ガーボルと「回避できて良かった」と喜びを分かち合いたい。そう思ってしまった。けれど、事件の直後は、詮索されないために連絡を控えようと言われていた。時を戻すという禁術を行使した魔術師が、ガーボルだと知られてはいけないから。そして、事件から一か月。捜査が一段落した頃に、ちょうど魔道具の具合が悪くなったのでガーボルを呼び出した。応接室に彼が修理道具を抱えて入ってきた瞬間、どれほどほっとしたことか。歓喜の表情を押し殺すことが、難しかっ
イロナが変わった?生意気にも、頼んだ課題をやらなかった。そのせいで、マールトンと一緒に先生に叱られたじゃない。まったく、ふざけてる。それに、マールトンに何か言いたげに、おどおどしていたのも……ちょっと変わった気がする。以前なら、縋るような目で彼を見ていたのに。最近は、なにか違う。まるで「話しかけるな」と言わんばかりの雰囲気を出している。どういうこと?でも、幸いにして気のせいだったみたい。数日で、元のイロナに戻った。資料集めを頼めばやってくれるし、イロナが読みかけていた小説も先に読ませてくれた。私はちゃんと本を返すんだから、問題ないわよね。「友達のいないあなたと、一緒に行動してあげる」そう言って、マールトンと一緒にいられないときだけ、そばにいる。いつも通り。ただ、最近はマールトンの方がイロナと接触しようとしている。不愉快だわ。学園に通うようになって、わかったことがある。学園に通って基本のマナーを教わったところで、貴族社会では通用しない。圧倒的に足りないのだ。何か失敗すれば笑われる。「あら、それは常識以前のことかと思っていたの。言葉が足りなくて、ごめんなさいね。では説明するわ」そんなのはもう、辱めでしかない。貴族たちには暗黙の了解が多すぎる。たまに生粋の令嬢でさえ「それは知りませんでしたわ」なんて言っているのだから、果てしない世界なのだ。どうしたらいいの?そんなことを考えた末に、私はひとつの答えを出した。私に逆らえない人たちを作ればいい。その上に立ってしまえば、少しは息がつける。手段なんか、選んでいられないでしょう?そう考えたら、早々にイロナを確保したのは我ながら英断だった。課題も、資料集めも、わからないことは彼女に聞けばいい。失敗はさりげなく彼女のせいにして。そして、男子を何人か確保した。陰からさりげなく手を貸してくれる人材だ。これで、悠々自適な生活が手に入った。――そう思っていたのに。生理が来ない。最初は、明日には来るかもと思っていた。ちょっと遅れているだけ。それで一週間。あっという間に、二週間。さすがに、本格的にヤバイ気がしてきた。父親が誰なのか、わからない。手駒の中で、一番爵位が高いのがマールトンだ。他の男たちは、彼がいつまでも経ってもイロナと婚約解消してくれないから、遊んだだ
初めてイロナに会ったとき、ぽやんとした子だと思った。学園に入学したものの、成り上がりと色眼鏡で見て、私を見下す貴族ばかり。そんな中で、イロナは見るからに人が良さそうだった。利用できると思って、友達になった。彼女を貴族社会に引き戻そうとする女の子たちは、当然蹴散らした。そのイロナの婚約者が伯爵家の令息だという。いいじゃない。奪い取ってやる。そう思った。そのマールトンと仲良くなってみると、イロナにノートを借りたり、課題を手伝ってもらったりしている。「じゃあ、ついでに私の分も」なんて頼んでみたら、あっさり引き受けてくれた。驚いたわ。お人好しで。イロナをのけ者にして、マールトンと二人で行動することを徐々に増やしていく。堂々と二人で登下校したり、昼食のときに、わざとイロナがわからない話題で盛り上がったり。それだけで、不思議と気分が浮き立った。初めのうちは、イロナに嫌われないよう、さじ加減に注意を払っていた。けれど、鈍い彼女は少しも疑わない。そうすると、気を遣っているのが馬鹿らしくなってくる。そうしたら、「距離が近すぎる」とイロナに注意された。私たちが揃って不機嫌になったら、イロナはすぐに意見を撤回した。そんなことなら最初から言わなければいいのに。「もう、イロナを無視してやったらどう?」「ああ。そうしたら、自分が出しゃばったことを反省するか。大人しくなって、いいかもな」マールトンは、イロナよりも私といる時の方がずっと楽しそだった。「これはいける」――そう確信した。それなのに、彼は手を出してこない。出会ってから二年も経つというのに、貴族はお行儀がいい。年頃の男なのに、妙に堅物だった。男女の仲にさえなってしまえば、あとは簡単。そう思って、最初は少し強引に関係を持った。これで、マールトンは私のもの――そう思った。それなのに、マールトンはいつまで経ってもイロナとの婚約を解消しようとしない。「婚約というのは、そんなに簡単に解消できないんだよ」そう言いながらも、マールトンは私を抱く。一度体を繋げてしまえば、あとは流されやすくなる。マールトンが煮え切らない苛立ちを、ほかの生徒で埋めていくことにした。男たちは「淑女らしくない」と私を批判しながらも、視線は胸に釘付けになっている。笑いかけて耳元で囁けば、簡単に落ちた。私を馬鹿にす
今日、春期大競馬会が開催される。わたくしは、とても落ち着いてはいられなかった。きっと、マールトンが応援している騎手が優勝する。そうなれば――明日は、前回のわたくしが毒殺された日だ。授業を受けていても、まったく頭に入らない。授業が終わって馬車に乗り込むと、座席にはひしゃげた造花が置かれていた。魔術師ガーボルと初めて会った日に、彼が持って来た「色とりどりの花が咲く」魔道具だ。「魔道具を持って来てくれてありがとう。修理してもらいたいから、お店に寄ってくれる?」わたくしは平静を装いながら、御者にそう指示を出した。「ですが、あの辺りは馬車で入れません」「フードを被っていくから、大丈夫よ」大通りで馬車を降り、わたくしは路地へ足を踏み入れた。こんな場所を一人で歩くのは初めてだ。心臓がばくばくと音を立てる。目的の店には、薄汚れた小さな看板が揺れている。窓ガラスは曇り、壁には苔が貼り付いていた。ここで間違いないはずなのに、扉を叩くだけで勇気がいる。けれど、このまま立ち尽くしているのも恥ずかしい。思い切って、扉を叩いた。顔に熱が集まる気がする。きっと顔が赤くなっているわね。心の中では「た、叩いてしまったわ」と、もう一人のわたくしがいるかのように、はしゃぎ回っていた。ところが、反応がない。もう一度、今度は少し強めに叩いた。「はーい」と面倒くさそうな声が聞こえた。カチャ。ドアノブが動く音がする。「え? イロナ様?」ガーボルが驚いた顔を見せた。初めて会ったときのようにだらしない姿ではないけれど、最近見慣れた爽やかな姿とも違う。シャツは少しよれていた。「嬉しいけど、人に見られたら……」「魔道具を壊して持って来ただけの、ただの客よ」わたくしは抱えていた魔道具を差し出した。「そ、そっか。じゃあ、そこに座って」ガーボルは背もたれのないスツールを勧めてくれた。「……不安になっちゃった?」ガーボルは手早く修理を進めながら、穏やかに話しかけてくれる。「そうなの。ごめんなさいね。明日の打ち合わせはもう終わっているのに……」そう。迎え撃つ準備は整っていた。マールトンの部屋には、すでに毒の材料を仕込んである。わたくしはただ心細いだけなのだ。カタリンにも今まで通りに接するよう心がけてきた。優しげに聞こえるけれど、気をつけて聞いて
時を巻き戻せた。学園でカタリンと出会う前まで戻れることを期待していたが、実際にはイロナが死ぬ一か月前だった。仕方ない。たった一月だが、生前に戻れたのだ。そう考えたところで、嫌な可能性に思い至った。もし巻き戻った先がイロナの死後だったら――背筋が冷たくなった。イロナが亡くなってから、時を巻き戻そうと思いつくまでに三年以上もの時が経っていたのだ。……危なかった。思わず冷や汗が出る。あの魔術師め。まあ、こうして生きているイロナに会えるのだから、文句を言っても仕方がない。これから先のことを考えよう。さて。この頃の俺は、カタリンと蜜月の関係になり、イロナを邪険に扱っていた。もっと前まで戻れていたら、普通に接することもできたのに……。今さら急に態度を変えるのも格好がつかない。しかし、久しぶりに学園に行くのは、少し楽しみだ。当時の勉強は面倒だったが、出された課題をこなせばすむ、ある意味では気楽な時代だった。卒業して家業を継ぐ勉強に入ると、正解のない問題ばかり突きつけられる。考えても答えが見つからず、父上も正解を知らないようだった。終わりが見えず、疲労感が果てしない。……まあ、俺が継ぐのはまだ先だ。真面目なイロナと、その実家の銀山があれば、俺の代になったら楽にやっていけるだろう。イロナなら、カタリンのように散財しないはず。家計の心配をしなくて済むだけでも、気が楽だ。……おや?乗り込んだ馬車が、学園とは違う方向へ進んでいる。「おい。どこへ向かっているんだ?」御者に声をかけると、不思議そうな声が返ってきた。「はい? いつもどおりカタリン・ヴァッシュ様のお屋敷ですが」「……そうか」ああ、そうだった。この頃の俺は、婚約者のイロナではなく、カタリンと登下校していたのだった。今思えば、おかしなことをしていたものだ。これを機に、イロナと登下校するように変えたらどうだろう。きっと彼女は目を潤ませて喜ぶはずだ。だが、そのためにはカタリンを説得しなければいけない。そんなことを考え事をしているうちに、馬車はカタリンの屋敷へ到着した。「マールトン。おはよう」カタリンは馬車に乗り込むなり、さっそく俺の腕に絡みついてきた。柔らかな胸が腕に当たる。そうそう。行き帰りの馬車は、こうでなければ。登下校はこのままでいいだろう、うん。教室に入







